恋愛ラボまんが。 [同人。]
「まんがタイムコレクション 宮原るり(芳文社)」
8月16日発売デスっ!!
というわけで、夏コミで配布したペーパーに、こんなまんがを載せていました。
http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=29463221
8月16日発売デスっ!!
というわけで、夏コミで配布したペーパーに、こんなまんがを載せていました。
http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=29463221
夏コミ予定。(西1よ-05a「くりっくSHU」) [同人。]
明日、8月11日土曜日に開催される夏コミ2日目に、
サークル参加を致します。
サークル名は「くりっくSHU」
スペースは「西1ホール・よ-05a」です。
新刊は、
昨年の夏まで、
講談社のまんが雑誌「アフタヌーン」にて連載されていた、
柏原麻実先生作「宙のまにまに」を基にした、
パロディ本になります。
新刊のタイトルは、
「まにまにクラブ」
頒布価格は200円です。
また、
新刊表紙と同絵柄のミニウチワを、
新刊と既刊を同時に購入された方に、先着で差し上げます。
ミニウチワだけ欲しい、という方には100円で頒布いたします。
夏コミ2日目の西ホールは、
たぶん、あまり混雑しないと思われるので、
お時間のある方や、おヒマな方は、ぜひお立ち寄りくださいませ。
10時の開場から、15時頃まで夏コミに参加する予定です。
よろしくおねがいいたします(>_<)
ルカとバーニーの薄い本?(内容注意) [同人。]
[注意]
婦女子さん、で、F1が好き、な方に向けた内容の記事です。
婦女子、の意味が分からない、
もしくご理解の無いF1ファンさまは、
以下の文章を読むことをお控えくださいませ。
----------------------------------------------------------------------
ヨーロッパGPのFP3で流れた、
フェラーリのモンテゼモロ会長と、FOMのエクレストン会長の映像。
この映像を観て、
「ルカとバーニーの薄い本マダー」
とツイッターでつぶやいた方がいらっしゃったので、
妄想してみました。
----------------------------------------------------------------------
1973年のF1界。
ブラバムチームのオーナーだったバーニーは、
次のフェラーリのチームマネージャーが、
20代の若造だという事を知る。
その名はルカ…。
1970年のイタリアGP。
予選中のクラッシュでリントが死去した事に、
リントのマネージャーだったバーニーは、
大きなショックを受ける。
傷心のバーニーを慰めてくれたのは、
マーチチームのオーナー、モズレーだった。
翌年、モズレーのチームに、
リントと同郷、オーストリア出身の若者が加わる。
ラウダ、という若者の走りを認めるものの、
そりが合わなかったモズレーは、1972年末に彼を解雇する。
モズレーの助けもあり、立ち直ったバーニーは、
1972年にブラバムチームのオーナーとなり、F1界に復帰。
そして、翌年、ルカと出逢う…。
ルカに惹かれるバーニー。
しかしモズレーとの関係もあり、一歩を踏み出せない。
そんな中で迎えた1974年。
ルカはフェラーリに新しいドライバーを迎え入れる。
2年前にマーチから解雇され、BRMで走っていたラウダを。
ルカとラウダの関係は良好なものだった。
低迷したチームを2人で立て直し、
1975年、ラウダはワールドチャンピオンに、
チームもコンストラクターズタイトルを獲得。
しかし、その年の終わりに、
ルカはFIATの役員に就任。F1界から離れてしまう。
ルカを失ったラウダ。
後任のダニエルとの関係が良くなかった事もあり、
不安定だったものの、第9戦のイギリスGPまで、
ポイントランキングでトップを維持。
第10戦のドイツGPを迎える。
1976年8月1日のニュルブルクリンク。
ドイツGP決勝の2周目、大クラッシュし炎上したラウダは、
生死の境をさまよう…。
驚異的な回復を見せ、
9月の第12戦イタリアGPでF1に復帰したラウダだったが、
その年のチャンピオンを、
わずか1ポイント差でハントに奪われる。
マネージャーのダニエルとの関係は悪化。
翌1977年、チャンピオンを獲得したラウダは、
フェラーリを去る決心をする。
1978年。ラウダが加入したのは、ブラバム。
バーニーが率いるチームだった…。
当時のF1界は、
イギリスに本拠地を持つチームの協会、FOCAと、
フランスやイタリアなど、
大陸に本拠地を持つチームに肩入れする、
FISAとの争いが激化。
1978年、バーニーはFOCAの代表に就任。
弁護士で、調停役のモズレーと共に、FISAと闘う事になる。
チーム運営とFISAとの争いで多忙な日々を送るバーニーは、
仕事に打ち込む事で忘れようとしていた、ルカの事を…。
しかし、両立は難しかった。
1979年のシーズン途中、
戦闘力の乏しいブラバムに嫌気がさしたラウダは、
F1引退を表明する。
FOCAとFISAの争いは、
1981年のコンコルド協定締結で、一応、の解決を得た。
モズレーはFOCAからのお目付役として、
FISAに加わる事になった。
同年、バーニーは若きブラジリアン、ピケを獲得し、
2人でブラバムをチャンピオンチームに育てる。
そのピケのライバルになったのは、ラウダ。
ロンに誘われ、
1982年にマクラーレンからF1に復帰したラウダは、
1984年にワールドチャンピオンを獲得。
再びF1界から離れるのは、翌1985年末の事。
それは、バーニーとピケの蜜月が終わりを告げた時でもあった。
1986年、ピケはウィリアムズに移籍。
1987年、バーニーはブラバムのオーナーを辞め、
FOCAの代表職に専念する事を決める。
1990年。
サッカーのワールドカップがイタリアで開催され、
成功のうちに幕を閉じた。
大会の事務局長を務めたのは、ルカだった…。
翌1991年、
ルカはフェラーリのマネージングディレクターに就任。
同年、モズレーはFIAの会長に。
そして1992年、
フェラーリF1チームのアドバイザーに就いたのは、ラウダ。
バーニー、ルカ、モズレー、ラウダ。
4人の運命が再び交錯し始める……。
----------------------------------------------------------------------
薄い本じゃ収まらないな、コレ…。
というか、この時間があったら、
自分の夏コミの原稿を…。
完全に逃避だ……。
肩こった…。
婦女子さん、で、F1が好き、な方に向けた内容の記事です。
婦女子、の意味が分からない、
もしくご理解の無いF1ファンさまは、
以下の文章を読むことをお控えくださいませ。
----------------------------------------------------------------------
ヨーロッパGPのFP3で流れた、
フェラーリのモンテゼモロ会長と、FOMのエクレストン会長の映像。
この映像を観て、
「ルカとバーニーの薄い本マダー」
とツイッターでつぶやいた方がいらっしゃったので、
妄想してみました。
----------------------------------------------------------------------
1973年のF1界。
ブラバムチームのオーナーだったバーニーは、
次のフェラーリのチームマネージャーが、
20代の若造だという事を知る。
その名はルカ…。
1970年のイタリアGP。
予選中のクラッシュでリントが死去した事に、
リントのマネージャーだったバーニーは、
大きなショックを受ける。
傷心のバーニーを慰めてくれたのは、
マーチチームのオーナー、モズレーだった。
翌年、モズレーのチームに、
リントと同郷、オーストリア出身の若者が加わる。
ラウダ、という若者の走りを認めるものの、
そりが合わなかったモズレーは、1972年末に彼を解雇する。
モズレーの助けもあり、立ち直ったバーニーは、
1972年にブラバムチームのオーナーとなり、F1界に復帰。
そして、翌年、ルカと出逢う…。
ルカに惹かれるバーニー。
しかしモズレーとの関係もあり、一歩を踏み出せない。
そんな中で迎えた1974年。
ルカはフェラーリに新しいドライバーを迎え入れる。
2年前にマーチから解雇され、BRMで走っていたラウダを。
ルカとラウダの関係は良好なものだった。
低迷したチームを2人で立て直し、
1975年、ラウダはワールドチャンピオンに、
チームもコンストラクターズタイトルを獲得。
しかし、その年の終わりに、
ルカはFIATの役員に就任。F1界から離れてしまう。
ルカを失ったラウダ。
後任のダニエルとの関係が良くなかった事もあり、
不安定だったものの、第9戦のイギリスGPまで、
ポイントランキングでトップを維持。
第10戦のドイツGPを迎える。
1976年8月1日のニュルブルクリンク。
ドイツGP決勝の2周目、大クラッシュし炎上したラウダは、
生死の境をさまよう…。
驚異的な回復を見せ、
9月の第12戦イタリアGPでF1に復帰したラウダだったが、
その年のチャンピオンを、
わずか1ポイント差でハントに奪われる。
マネージャーのダニエルとの関係は悪化。
翌1977年、チャンピオンを獲得したラウダは、
フェラーリを去る決心をする。
1978年。ラウダが加入したのは、ブラバム。
バーニーが率いるチームだった…。
当時のF1界は、
イギリスに本拠地を持つチームの協会、FOCAと、
フランスやイタリアなど、
大陸に本拠地を持つチームに肩入れする、
FISAとの争いが激化。
1978年、バーニーはFOCAの代表に就任。
弁護士で、調停役のモズレーと共に、FISAと闘う事になる。
チーム運営とFISAとの争いで多忙な日々を送るバーニーは、
仕事に打ち込む事で忘れようとしていた、ルカの事を…。
しかし、両立は難しかった。
1979年のシーズン途中、
戦闘力の乏しいブラバムに嫌気がさしたラウダは、
F1引退を表明する。
FOCAとFISAの争いは、
1981年のコンコルド協定締結で、一応、の解決を得た。
モズレーはFOCAからのお目付役として、
FISAに加わる事になった。
同年、バーニーは若きブラジリアン、ピケを獲得し、
2人でブラバムをチャンピオンチームに育てる。
そのピケのライバルになったのは、ラウダ。
ロンに誘われ、
1982年にマクラーレンからF1に復帰したラウダは、
1984年にワールドチャンピオンを獲得。
再びF1界から離れるのは、翌1985年末の事。
それは、バーニーとピケの蜜月が終わりを告げた時でもあった。
1986年、ピケはウィリアムズに移籍。
1987年、バーニーはブラバムのオーナーを辞め、
FOCAの代表職に専念する事を決める。
1990年。
サッカーのワールドカップがイタリアで開催され、
成功のうちに幕を閉じた。
大会の事務局長を務めたのは、ルカだった…。
翌1991年、
ルカはフェラーリのマネージングディレクターに就任。
同年、モズレーはFIAの会長に。
そして1992年、
フェラーリF1チームのアドバイザーに就いたのは、ラウダ。
バーニー、ルカ、モズレー、ラウダ。
4人の運命が再び交錯し始める……。
----------------------------------------------------------------------
薄い本じゃ収まらないな、コレ…。
というか、この時間があったら、
自分の夏コミの原稿を…。
完全に逃避だ……。
肩こった…。
夏コミ当選! [同人。]
夏コミ当選しました~!
夏コミ2日目(8月11日土曜日) 西1ホール よ-05a「くりっくSHU」デス。
新刊は、講談社・アフタヌーンにて連載されていた「宙のまにまに」本です。
夏コミ2日目(8月11日土曜日) 西1ホール よ-05a「くりっくSHU」デス。
新刊は、講談社・アフタヌーンにて連載されていた「宙のまにまに」本です。
あと48日。 [同人。]
大陽出版さんのWebサイトを見たら、
冬コミ早割の〆切日が公開されていました。
http://www.taiyoushuppan.co.jp/doujin/discount/hayawari.php5
〆切は11月21日かあ。
あと48日。
ガンバレ、私。
冬コミ早割の〆切日が公開されていました。
http://www.taiyoushuppan.co.jp/doujin/discount/hayawari.php5
〆切は11月21日かあ。
あと48日。
ガンバレ、私。
最終回なのに。 [同人。]
現在発売中のアフタヌーンで、
「宙のまにまに」が最終回を迎えました。
夏コミに受かっていれば、
「最終回おめでとう本」
みたいな、突発コピー誌などを出せていたかも知れません。
今回の夏コミに落ちたのは、本当、キツイです。
「宙のまにまに」が最終回を迎えました。
夏コミに受かっていれば、
「最終回おめでとう本」
みたいな、突発コピー誌などを出せていたかも知れません。
今回の夏コミに落ちたのは、本当、キツイです。
夏コミ当落と今後について。 [同人。]
くりっくSHU、夏コミ落選しました。
正式な落選通知も届きました。
次の冬コミですが、夏コミ同様「宙のまにまに」で参加申請をします。
冬の新刊は、夏コミで出す予定だった新刊に、プラスαした内容でお届けする予定です。
夏に受かるつもりで、地道に新刊製作作業を進めていたため、だいぶ原稿は進んでいます。
ので、冬に新刊が無い…という事態は避けられそうです。
冬こそは受かりますように。
正式な落選通知も届きました。
次の冬コミですが、夏コミ同様「宙のまにまに」で参加申請をします。
冬の新刊は、夏コミで出す予定だった新刊に、プラスαした内容でお届けする予定です。
夏に受かるつもりで、地道に新刊製作作業を進めていたため、だいぶ原稿は進んでいます。
ので、冬に新刊が無い…という事態は避けられそうです。
冬こそは受かりますように。